武田流流鏑馬

流鏑馬の語源は「矢馳馬」つまり「ヤバセメ」が転じたものと言われ、「馬に乗って鏑矢を射流す」に由来すると言われています。

古来強弓を引き敵を遠矢にかけて射倒すのが武者の誇りであり、馬上から弓を射る騎射(うまゆみ)は、最高の武道として、武将たるもの弓矢を持って馬に乗ることが正装であったのです。

やがて騎射は、流鏑馬の礼・笠懸・犬追物の三つ物と言われるようになり、笠懸や犬追物は、騎射の稽古として用いられ、流鏑馬は、神事として神社に奉納して神慮を慰めるという行事として起こり今日に至っています。

起源は古く、第二十九代欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前の国宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀られ「天下泰平・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に馬上から三つの的を射させられた神事が始まりとされています。

第五十九代宇多天皇は、右大臣源 能有公に命じて「弓馬の礼」を制定させ、能有公はそれを娘婿の清和天皇の皇子である貞純親王に伝え、以来六孫王経基から、満仲、頼信、頼義、義家と「弓馬の家」と言われた源家が世々相伝し、八幡太郎義家の舎弟・新羅三郎義光からその子孫である武田・小笠原家に伝えられています。

鎌倉時代は、騎射の優劣が一所懸命の東国御家人の生死を決するものとなり、武田家も射手として活躍した流鏑馬は、頼朝によって武家作法のもと一射入魂の家伝の射芸を披露する場として幕府の正式行事として盛んに行われていました。


最後の武田家嫡流の武田三十郎信直入道吸松斎清芸公は、慶長年間に残した「流鏑馬射法」の中で「今、国々に於いて之を行うと雖も、武家の作法に非ずや偏に右大将家の嘉例本旨なるべきものなりや」と説いている。


武田家が嫡流の秘伝として守り伝えた弓馬故実礼法は、「武田流」と称されましたが、慶長年間に信直公は、この武田流を姻戚である細川藤孝公に委ね、直弟の竹原惟成に伝授し、以降肥後細川家において永く保存継承されてきました。

鎌倉の武田流は、竹原家が継承してきた武田家弓馬故実礼法を、明治期に細川護久候より継承を命ぜられた井上平太師より、直弟である金子有鄰師が相伝したものです。


爾来、有鄰師は、武田家に伝わる弓馬故実礼法の相伝者として、又、伝統馬術の第一人者として、鎌倉の地においてその道統の継承と伝統馬術の保存に尽力し、特に先師井上平太師より託された流鏑馬神事を広く天下に公開するという遺志の実現にその生涯を捧げられました。

今日においても鎌倉の武田流は一門として、歴代先師の遺志を継ぎ、信直公が慶長十五年に記した嫡流の秘伝「流鏑馬射法」に則り、鎌倉時代さながらの勇壮華麗な流鏑馬神事の奉納と伝統馬事文化の保存継承に努めています。